博士課程のこと

博士進学のことを書いてみようと思う。博士進学の記事はいろんな人が書いてるから自分が改めて書く意味もあまりないかもしれないけど、自分のための備忘録ってことで書いておく。

学部生のころは研究者志望で博士進学は当然だと思ってた。もちろん日本じゃなくて米国の大学院でPh.Dを取りたいなとも考えていた。研究者を志望していた理由は、単純に自分が専攻している物理が面白いと思ったから。学部生のころレポートを書いて、テストを受けて、分からないところを調べてっていうのをひたすらやる分には、博士進学についてはなんとなく、そのまま進学するんだろうなとしか思っていなかった。他のことを考える暇もなかったっていうのが正しいかもしれない。
卒論研究がはじまったくらいから自分の時間も調整できるようになったあたりから、自分の気持ちというか何を目指して、何がエキサイティングなのかを探り始めた。物理は面白いっていう気持ちと同時に、せっかく人生の時間を使うのだから、自分が面白いし自分以外の生き物(ヒト以外の生物含む)にも良い影響が及ぼせるようなことをしたいなという感覚をもっていた。別に、卒論研究を始めたからそう思ったわけじゃなく、今思うと昔からこの感覚はあった。その感覚を学部生や院生初期のころは、きちんと言葉にもしなかったから、物理をやめて医者とか獣医になろうと思った時期もあったし、都市計画の分野に移ろうかとも考えていた。その一方で、基礎物理は工学じゃなく研究内容が人間と直接的に関わることはないから、どうにも自分のやっていることと自分の目指すことの間にギャップを覚えてしまった。ここのギャップが学部生のころから感じていたことだけれど、院生になって一層感じるようになった。もちろん、基礎研究に対しては、役に立つか立たないかなんていう議論は毛頭意味がないと思うし、寝ても覚めても物理をやりたいほど楽しいと思う人は絶対に極めて欲しい分野だと思う。けれど、結論から言えば自分はそうじゃなかった。

そういう違和感を感じてはいたけれど、学部生のころは、「まぁ、物理が面白いから同じ専攻でいっか」くらいで院試を受けた。つまり、ギャップを感じつつも物理は”面白い”と思っていた。自分にとってのこの”面白い”っていうものの正体が分かったのは、大学院に入った後だった。大学院で所属した研究室は、かなり自由で研究テーマも学生本人が興味あることを積極的にやらせてくれた。研究室は、自由で束縛プレーがない点は、良いけど研究テーマを自分で探さなくちゃならない。テーマ探しも含めて自由にやらせてくれている分には、まだ物理は”面白い”と思っていた。自分にとっての物理の”面白い”が判明したのは、他大学との合同研究会に参加した時だった。そこでは、学部生から博士課程、ポスドクの人が発表して先生も交えてディスカッションしていた。その人たち、特に博士課程よりシニアのポジションにいる人たちは特に議論を重ねていたように見えた。その光景をみて、「人の生き死に関わらないことで、なんでこんなに熱くなれるんだろう。いろんな解釈があるけど、人が死ぬ訳でもないし、金銭的な損失が生まれるわけでもないからどうでもいいじゃん」と思ってしまった。つまり、自分にとっての物理の”面白い”は、素人がテレビの宇宙番組を見て面白いっていうのと同じだと気づいた。物理の本を読むのは好きだったけど、それは単に誰かが導いて整備された結果を収集することが楽しかっただけだった。つまり、物理の研究作業に対しては、全く情熱がなかった。これは、次のことを想定したらより一層あきらかになった。

・指導教官がいなくなっても自分でテーマを設定できるか?それほどの情熱が物理に対してあるか?
・研究者のポジションがなくて、地方の大学でも研究を続けられるか?
・研究と給料の兼ね合いについて満足できるか?

答えは、すべてNOだった。自分でテーマ設定したくなるほどの情熱はないし、別にやらなくても誰かが死ぬわけでもないからモチベーションもない。あくまで、分かったことで面白くまとめられたものを教養として知るのが好きなだけ。これが、一つ目の答え。地方の大学に行ってでも研究を続けたいとは、思えなかった。研究が好きなのは、今のこの肩書きと所属があるからだと思った。これが、二つ目の答え。研究に興味がなくても給料が高ければ、頑張ってやるとは思うけど、薄給だったらやりたくないと思った。これが、三つ目の答え。少なくとも、物理の”研究”には向いていないと分かった。

昔は、物理をやれば遠回りにでも誰かの何かの役に立てるはずと思ってたし、技術を身につけることが生きていく上ので強みになると思ってた。実際には、その通りなんだろうけど、自分には何の役に立つのか分からないものに取り組める性格じゃなかった。技術とか制度の守備範囲の隙間に落ちている問題に対して取り組んで人のQOLを上げることに情熱を燃やす性格だからかもしれない。だから、上に書いたように物理の”研究”への興味はあっても情熱はないんだと思う。それに加えて、博士に進学しない理由は、他にもある。技術"だけ"を身につけるキャリアにしたくないと感じたから。大規模実験をやるような研究は、どんな感じになってるのか分からないけど、少なくとも自分の研究分野は、個人プレーの色合いが強い。それゆえに、研究は出来て技術も持っているけど、コミュニケーションを上手くとれない人が多いように感じた。コミュニケーションっていうのは、雑談が出来る能力から研究のことを議論したりポジションに応じた振る舞いが出来ることを指す。研究室だけで生きていくなら、コミュニケーションなんていらないのかも知れないけど、自分にはこんな生き方出来ないし、したくないと思った。技術"だけ"の人間になることは自分の目指すものと大きく違っていると感じた。研究に対する情熱はないし、だからこそ研究が仕事になった時、一緒に仕事したいと思うような仲間も見つけられないと思った。

だから、博士進学をしないで就職することにした。何より、研究とは関係のないポジションにいる人に上で書いたようなことをぼんやり相談したとき、「そう思うときが、社会にでるタイミングだよ」っていうコメントをもらったのが心を決めるきっかけになった気がする。物理の話を聞いて面白いと思うのは、昔も今も変わらない。物理を勉強してきた過程で身に付いたものもあるから勉強して良かったと思う。

やれば自然と好きになるっていうことよく言うけど、本来は、「実際にやってみると好きかどうか分かる」っていうのが正しい言い方のような気がする。
これから進路を選ぶ人に伝えたいことがあるとすれば、見栄や体面との兼ね合いで自分の興味あるものを選ぶより熱く語れるような自分の好きなものを選ぶようにするのが良いよって伝えると思う。まあ、よくありがちなおっさんの説教コメントみたいだけど、自分が体験してみるとこのコメントが一番しっくりくる。”こだわり”とか”やりがい”なんかをすべて捨てて、言われたことだけをやるっていうのも楽な道かもしれないし、もちろん、自分の価値観との兼ね合いなんだろうけど。

どこを就職先に選ぶかは、後で書くことにする。